Federico Garcia Lorca 1898-1936

原作者のロルカ研究家イアン・ギブソンはこう書いている。「1936年8月、グラナダではロルカであると噂される人物、およびロルカの友人は死を覚悟しなくてはならなかった」

スペインの偉大な詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカは、グラナダにあるアンダルシア人町の近く−フエンテ・バケロス村−で1898年6月5日に生まれた。

父親は成功した農場主で、その家系は奇抜な趣味と音楽や文学の才能で知られており、ロルカもまた地域独特の民族伝承と文化の伝統に強く影響されて育つことになる。4歳にならないうちに沢山のフォークソングを暗記して歌い、ギターを習い始めたという。彼は生涯、深くアンダルシア地方を愛し続け、作品にもそのこだわりが色濃くあらわれている。

11歳の時に一家はグラナダに引っ越し、ロルカは1915年にグラナダ大学に入学した。この時期の彼は音楽の虜で、みるみるうちに熟練したピアニストとなっていた。いっぽう、散文と詩の最初の著作『印象と風景』が1918年に出版され、彼の才能と情熱はより文学へと注がれるようになっていく。

この頃のグラナダでは芸術ルネッサンスが起こり、1919年に著名な作曲家マヌエル・デ・ファリャをこの地に移住させたほどだった。画家、研究家、彫刻家、ジャーナリスト、作曲家がこぞって作品を発表して全盛を迎えたけれど長続きはしなかった。

1920年頃、ロルカはマドリッドに居を移し、詩や戯曲を出版し始めた。1921年に友人とニューヨークを訪れた時に書かれた偉大な作品『ニューヨークの詩人』は彼の死後、1940年に出版された。1928年の『ジプシー歌集』は記念碑的作品で、スペイン全土で読まれた。1933年にはブエノスアイレスを訪れ、彼の最も有名な戯曲のひとつである『血の婚礼』が熱狂的に支持された。1934年、最後の戯曲『イェルマ』がマドリッドで初演された。

ロルカはホモセクシュアルだったため、特にグラナダの伝統主義者の憤りの的となっていた。しかし彼が要注意人物として目をつけられるようになったのは、スペイン共和国への率直な支援とリベラル思想が原因だった。1933年、反ファシスト組織−国際赤色救援会とソ連の友協会−のメンバーでもあった彼は、ナチスによるドイツ人作家迫害を非難する声明書に署名した。新聞は、彼の政見をしばしば掲載した。1934年にマドリッドの日刊紙エル・ソルに掲載されたインタビュー記事では次のように語っている。「私は常に持たざる者の味方でいるつもりだ…我々のように裕福な中流家庭で教育を受けた知識人が身を捧げるよう求められているのだ。挑戦を受け入れようではないか」

1936年7月、ロルカはマドリッドを離れ、メキシコに発つまでの日々を両親と別荘で過ごそうとグラナダへ戻る。これが運命の分かれ道となった。7月17日、スペイン領モロッコで蜂起したナショナリスト運動がグラナダに広がり、ファシストのラモン・ルイス・アロンゾの告発によって逮捕されたロルカは、8月19日に射殺された。

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